時間 - Wikipedia
時間(じかん)は、できごとや変化を認識するための基礎的な概念である。芸術、哲学、自然科学、心理学などの重要なテーマとなっている。それぞれの分野で異なった理解のしかたがある。
[編集] 今日の日常的な意味での時間
「時間」という言葉は、以下のような意味で使われている。
- ある時刻と別のある時刻の間(時 - 間)。およびその長さ。
- 時刻。つまり、時の流れの中の一点のこと
- (哲学寄りの概念)空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式をなすものであり[1][2][3]、いっさいの出来事がそこで生起する枠のように考えられているもの[4]。
時刻という意味で時間という言葉を用いるのは、日常語[5]、ないし俗語[2][6]とする辞書もある。
(1)の意味の時間、すなわち時刻の間およびその長さというのは「この仕事は時間がかかる[7]」とか「待ち合わせ時刻まで喫茶店で時間をつぶす[7]」などのように用いられている概念である。長さの意味での時間を数で示す表現を日本語および英語で挙げてみると例えば「5時間(five hours)」「2日(2日間、two days)」「4ヶ月(four months)」などがある。
(2)の意味の時間すなわち時刻は、ある特定の一瞬のことである。別の言い方をするなら、時の流れの中の一点(時点)である。これを数的に表す表現には例えば、5時(five O'clock)、2日(the second day)、4月(April)などがある。
(3)の意味の時間、すなわち哲学的概念としての時間は、まず第一に人間の認識の成立のための最も基本的で基礎的な形式という位置づけである。カントなどの指摘にもとづき現在まで用いられ日々用いられるようになっている意味である。一般に人は日常的にこの意味での時間を"流れ"としてとらえていることが多い。例えば時(とき)は、「過去から未来に絶えず移り流れる[3]」とか「過去・現在・未来と連続して流れ移ってゆく」[1]などと表現されるのである[8]。なお、時間の流れに関しては、過去から未来へと流れている、とする時間観と、未来から過去へ流れている、とする時間観がある。(後述)
[編集] 長さとしての時
[編集] 現代の《時の長さ》の単位
《時の長さ》を表すのに用いられていること(ものさし、単位)としては、現代の先進諸国では一般的に[9]年、月、日、そして時間、分、秒が用いられており、また週(7日)も用いられている。さらに10年紀、世紀(センチュリー)、千年紀(ミレニアム)などが使われることもある。
[編集] 《時の長さ》を表すもの
人はもともと何かの変化を《時そのもの》として感じていた、何かの変化と時をはっきりと区別していなかった、ということは学者によって指摘されることがある(下の「古ゲルマン」などでも述べる。人々は数学的な意識では生きていなかったのであり、"単位"という概念も意識していなかったということである)。
《時の長さ》そのものと感じられていたことの中では、《日》はきわめて一般的であり広くどの文化でも見られると言われている。
《月》というのは、もともと夜に照明を用いずに生きていた人類にとっては強く意識されていた時間の長さであり、女性にとっては(古代の女性でも現代の女性でも)自身の身体や気分の変化で強く実感している時間の長さでもある。
《年》は神話的・宗教的概念とも深く結び付いていることが指摘されるが(後述)、一方で人類の農耕活動の定着や知的活動の高まりと関連付けられて説明されることのあるものであり、古今東西の文明で広くもちいられている。
《週》というのは7日をひとまとめと見なす人工的な概念・制度(7曜制)であるが、これはある歴史的経緯を経て広まってきたものであり、近・現代になるまでとても万国共通とは言えない状態であった。例えば日本では、平安期にそれは伝わりはしたものの実際上は用いられておらず、生活周期としても日々の意識としても無きにひとしかった。日本人は10日等ごとに何かを行っていたのである。明治政府が国策として西洋各国に倣い法律で定めるたことで日本に広まったのである。何日かをひとまとまりとして見なす文化・制度としては、例えば5曜制、6曜制もあり、10日、90日などをひとまとまりと見なす文化もある[10]。 7日をひとまとまりと見なす文化は、(確かなことは判らない面もあるが)バビロニアが起源だとも言われている。そしてユダヤ人がバビロニアに捕虜として連行された時に(バビロン捕囚)その地でその習慣を取り入れ、ユダヤ教文化からキリスト教文化へと継承され、同文化が広まった結果7曜制も世界に広まったと言われている。キリスト教と一体化していた王権と敵対・打倒し成立した革命政府(たとえばフランス革命政府、ロシア革命政府など)では7曜制を排止して10日や5日を週とする制度を定めた時期もあったという。[10]。
《時間》は人工的に作られたものではあるが、一日を12分割したりする発想はかなり古くからあった。
《分》《秒》などの単位はかなり人工的に作られてきた概念・単位で、歴史的に見ればかなり新しいものである。
現在視点で見れば、天体が見せる以下の周期的な現象(現代で言う天体の運動)をもとにして人類は時間の単位を決めてきた、と解釈することも可能ではあるかも知れない。
- 日没の周期や日の出の周期(太陽の見かけの動き、現在で言うところの地球の自転)→1日
- 太陽の見かけの高度が変化する周期(現在の公転)→1年
- 月の満ち欠け(現在で言うところの、月の公転)→(太陰暦での)1ヶ月 。
そしてそれが現在も暦として生き続けているのだ、とも解釈できるかもしれない。
西欧で13世紀ころに機械式(歯車式)時計が制作されるようになると、天体とは切り離された人工的な時間概念が意識されるようになった。時計は、より短い周期で振動するものを採用することで精度を上げる技術革新が続き、技術革新がおきるたびに、「以前の時間の計り方は不正確だった」などと見なされるようなことが長年に渡り続いた。そしてついには、原子の発する電磁波の周波数によって時間を決定する事となった。これが原子時計である。
現代の国際単位系では時間の基本単位として秒を定義しており、2006年現在では、「1秒はセシウム133原子(133Cs)の基底状態にある二つの超微細準位間の遷移に対応する放射の 9,192,631,770(約100億)周期にかかる時間」と定義されている。そして国際単位系における基本物理量のひとつとされて世界的に統一された単位が定義され、社会生活や産業活動においてよく使われている。
「時刻」も参照
[編集] 自然の時間/人工的時間 と人間の健康
以上の《時間の長さ》を長いほうから短いほうへと並べれば、年、月、週、日、時間、分、秒ということになろう。
なお、科学者らが人工的で短い時間単位を思いつき、そうした短い単位に人の行動が支配されるようになったことで人々のストレスは増大してきた、といったことが指摘されることがある。
人工的に作り出された「秒」の長さ・周期というのは(いきさつ上)平均的な人間の平常時の脈拍よりも短く設定されてしまったわけだが、そうした(せせこましい)秒周期の音を(秒針の音などで)聞かされることや、あるいはそれを意識することが、人間にとって何らかのストレス源になってしまっている可能性が指摘されることもある。
人間は普段意識している《時間の長さ》の心理的な影響を受けることが知られている。また聞かされる音(環境音)の周期・リズムから心理的・生理的に影響を受けることも多くの実験で明らかになっている。さらに自分自身のその時々の脈拍をリアルタイムで聞いていると心地よい(心地よく感じていることを示す脳波が多く出る)ことも実験によってわかっている。もしも仮に秒の長さが現在の設定よりもいくらか長く設定されていて、人間の脈拍よりも十分に長くなっていたなら、秒針の音は人をもっとゆったりとリラックスさせるものになっただろう、と指摘されることがある。
現代生活の人工的で短かすぎる時間による過剰なストレスに苦しめられている人は、自然の時間で生きる生活を送ると(たとえば人工的な時間を表示する時計類は身体から離して一切眼に入らぬようにし、自然の中で暮らし、夜は照明を用いず日没後すみやかに眠るようにし、日の出にあわせて起床し太陽光を浴びるようにすると)、やがてストレスから解放され治癒される傾向がある、ということが知られている[11]。
時刻とは、ある特定の一瞬のことである。別の言い方をするなら、時の流れの中の一点(時点)ということである。
時刻の表し方は、歴史的に見て様々な方法がある。 古くは日の動きで決めた。日の出という時刻があり、日没という時刻がある。また日が南中する時刻が正午(noon)とされた。 つまり、時刻は、自然をもとに決められていた。現在のように機械式の時計を基準に定められたりなどしていなかったのである。
なお、1日のいつを1日の始まりの時刻と見なすかは文化圏によって異なっている。アラブ人やユダヤ人は日の入を一日の始まりとしている。またギリシアにある正教会などでも、他の地域の正教会でも、日没の瞬間が1日の始まりだとされている。今日でもそうだとされているのである。1日は夜の闇の中で始まり、やがて夜明けを迎え、昼を迎え、最後に1日の終わりである夕暮れを迎えるのである。同教会の修道士たちは現代でもそうした時刻観にもとづいた時間割で日々の生活を規則正しく送っている。
一方で日の出の瞬間を1日の始まりだと見なしている文化も多い。バビロニア人やエジプト人は日の出を1日の始まりの時刻だとしていた。
西欧で中世以降に機械式の時計が登場してからは、人々は機械的意識にもひきずられるようになった。機械の針が0を示した時が1日の始まりだという意識である。これは自然と切り離されてしまった時刻観である。現代の先進国の人々は自然から離れてしまった機械的時刻を意識してしまうためストレスを感じている[11]。
「時刻」も参照
[編集] 古代宗教における時間
ここから先は時代に沿って、様々な時間観を見てゆく。
古代宗教における時間については、ミルチア・エリアーデが透徹した解釈を行った[12]。聖なる時間によって俗なる時間は隔てられ、中断される[12]。聖なる時間をその前後の俗なる時間から区別するのは、ヒエロファニー(hierophany、聖なるものの顕現)である[12]。周期的に営まれる祭儀は、本来、俗なる時間を中断して神が顕現する聖なる時間なのだという[12]。
どうして恥ずかしがら?- 聖なる時間は可逆的で、反復可能である[12]。
- 人は、通俗的な時間を中断する力をもった祭儀を周期的に営むことで、聖なる時間へ立ち帰り、神々と同一化する。これは真実在への渇望にもとづく[12]。
- 神々による世界創造の時間が、あらゆる時間の原型とされた。聖なる時間は、世界が創造された根源的時間を象徴する。宇宙の原初において聖なるものが顕現した根源的時間を周期的に再現する、ということが宗教暦の基盤である[12]。祝祭はたんなる記念日ではなく、神話的出来事を再現しているのである[12]。
- 周期的祝祭のうち、重要なのは新年である。多くの民族の言語で、「世界」をあらわす言葉が同時に「年」をも意味することが指摘されている[12]。これは、世界が新年ごとに再生し更新されている、という観念である。したがって新年は世界創造の再現であり、新年ごとに原初の生命力を更新して再生するのである[12]。
- ここにあるのは円環的な構造をもち、無限に反復する時間である。こうした円環的時間への信仰は、時間の周期的な全面的再生への願望を生み出している。世界と人は周期的に創造-存続-終末的破滅-創造…を繰り返す(Great Year「大年」)[12]。時間は宇宙の創造から破滅にいたる一周期を終えると、さらに他の周期を始め、完全に再生するのである[12]。ここには永遠に対する希求があるという[12]。
仏教の時間理解は基本的に現在指向である。それは前世も来世も説かなかったブッダの現世指向に起因するものらしい。転生説を容れるとしても、それは円環時間観の存在を示すことにならない。転生が、計測される同一の時間軸の上に起こるものとされていないからである。 物事はすべて移ろい行くものであり、不変な存在などない(諸行無常)というのが仏教の根本的な認識である。アビダルマではこれを「すべての存在は極分化された一瞬にのみ存在し、瞬間毎に消滅する」(刹那滅)という思想として展開した。従って、計測される時間の外にある。 龍樹に代表される空思想においても時間は、計測の外で現在意識を軸に考察されている。
[編集] ギリシア神話
古代ギリシアのギリシア神話には時にまつわる神が二体ある。Καιρός、ラテン文字転写:Kairos、[13]カイロスであり、一瞬を表している神である。もう一体はΚρόνος, Kronos、クロノスであり、クロノスというのはガイア(地球を表す神)とウラヌス(天空を表す神)の子孫である。
[編集] 古代ローマ
古代ローマのホラティウス(紀元前65 - 紀元前8)が詩に残したCarpe diem、カルペ・ディエム という句は、直訳では「その日を摘め」、つまり「今日という一日を大切にしなさい」「今という時をよく味わいなさい」という意味である。人々がつい忘れがちなことを思い出させてくれる深みのある句として、現在に至るまで繰り返し引用されている。
上段のギリシア神話との兼ね合いで言うと、現代の先進諸国ではクロノス的な時間意識でつい生きてしまうが、幸せに生きるためにはカイロス的な意識がとても大切なのだ、と言われているのである。スケジュールに追われるあまり、一瞬一瞬自分の目の前に現れる幸せなできごとを味わうことを忘れていると、できごとに伴う幸福感を感じることもなく時がすぎ、気づいた時には実感のともなわない虚しい時間ばかりが過ぎていた、ということになりかねないからである[11]。《今この時》を味わうことができないと本当の幸せは味わうことはできない、という[11]。
[編集] ユダヤ教・キリスト教
ユダヤ教には円環的な時間観も見られ、その影響がキリスト教にも見られはするが、キリスト教にはそれを超えた反復不可能の一回的な時間観がある[12]。
キリスト教の時間観にとって決定的なことは、神の子の受肉としてのイエス・キリストのこの世への到来、その死と復活という、歴史のただなかへの一度かぎりなされたとされる神の啓示である[12]。これは反復されない、一回的で決定的な出来事とされ、それを唯一の根源としてキリスト教の救済史観が成り立っている。
キリスト教では、神の創造もただ一度で完了した過去の業にすぎないものではなく、それと同時に伝統的に「不断の創造」として現在の事実とされ、R.K.ブルトマンやC.H.ドッドなどは終末についても現在性があると指摘している[12]。
キリストの出来事が歴史の中心とされ、それを通して創造や堕罪、終末や再臨が理解される時、これらのことは不可逆的な直線的時間の上に配置され、また現在の事実として主体的に反復される[12]。
[編集] アウグスティヌス
時間をめぐる考察が厄介である事を示すためにしばしば引用されるアウグスティヌスの有名な言葉に、「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない[14]」というものがある。
アウグスティヌス(354 - 430)は時間を内面化して考えた。時間は心と無関係に外部で流れているようなものではない。過去、現在、未来と時間3つに分けて考えるのが世の常だが、過去とは《すでにないもの》であり、未来とは《いまだないもの》である。ならば在ると言えるのは現在だけなのだろうか。過去や未来が在るとすれば、それは《過去についての現在》と《未来についての現在》が在るのである。過去についての現在とは《記憶》であり、未来についての現在とは《期待》、そして現在についての現在は《直観》だとアウグスティヌスは述べる。 時間とは、このような心の働きなのである。「神は世界創造以前には何をしていたのか?」と問う人がいるが、アウグスティヌスによれば、こうした問いは無意味である。なぜなら、時間そのものが神によって造られたものだから、創造以前には時間はなかったのである。神は永遠であり、過ぎ去るものは何もなく、全体が現在にあるのである。
[編集] 古ゲルマン
10世紀以前の古ゲルマン世界での公的生活は、まだキリスト教的な直線的時間意識には規定されていなく[15]、円環的な時間意識が支配的であった[15]。ゲルマン人が「timi」(時)と言うと、正確な計測という考え方はみられず、あくまで季節などかなり長い時の経過を意味した[15]。ar(年)というのも、毎年繰り返される収穫の意味であった。まず現実の農耕生活における、具体的な、人間と自然の規則正しい関係があり、それが人間の意識や行動を規定していたのであり、《繰り返し》が時間のあたりまえの姿だったのである[15]。ゲルマン人の円環的時間意識のもとの死生観では、人間は死後冥界に入るが、この冥界というのはこの世と並行して存在しており、この世と交流可能な世界であり、死者は現世とつながりつつ冥界で生きる、とされた[15]。
[編集] 11世紀以降のゲルマン世界
11~12世紀以降にキリスト教が公的生活にまで影響を及ぼすようになったが、これは古ゲルマンの意識とは異質なものであり[15]時間意識や死生観は変化してゆくことになった[15]。キリスト教の時間意識は、神を目指すひとつの方向に進む直線的な時間観であったので、《繰り返す時間》の観念は否定されてゆくことになり、終末に向かって進んでゆく時間の変化が意識され[15]、人間は死ねば、煉獄、そして天国か地獄へ行き、最後の審判を待つしかない、とされることになった[15]。古ゲルマンと、この世とあの世の時間的関係が全く異なるのである。人々は死ぬと現生とのきずながたたれる、ということにされた[15]。教会の教えにより、人はただ1度だけ生き、一度だけ死ぬ、ということになった[15]。
またこの時代、キリスト教のほかにも、商人たちが人々の時間意識に影響を及ぼしはじめる。商人たちは日数と費用の計算をするために、計測するものとして時間の観念を使いはじめた。それまで時計は日時計、水時計、砂時計など自然のリズムを意識するものだったのが、13、14世紀になると西欧各地で歯車時計が登場し、市庁舎の塔に据えられ、日々、人々の意識を支配してゆくことになった。「市民共有の大時計は、自由都市を牛耳る商人たちの、経済的・社会的・政治的支配の道具」となった、とジャック・ル・ゴフは言う[15]。
[編集] 自然哲学および自然科学での時間
[編集] ニュートン力学での時間
アイザック・ニュートンは、自然哲学にユークリッド幾何学(および他の数学)を大幅に導入した体系を構築、それを『自然哲学の数学的諸原理』(1687年刊)で開陳した。当時知られている幾何学はユークリッド幾何学だけで、ニュートンが用いた幾何学もそれであったので、空間は均一で平坦なユークリッド空間だと暗黙裡に仮定されている。ニュートンは同著では、時間は過去から未来へとどの場所でも常に等しく進むもので、空間と共に、現象が起きる固定された舞台のように想定し、この固定された舞台を「絶対空間」及び「絶対時間」とも呼んだ[16]。
[編集] 相対性理論での時間
アインシュタインは相対性理論を構築した。ニュートン力学においては時間は全宇宙で同一とされたが、アインシュタインの相対性理論ではそうではない、とされるようになった。
特殊相対性理論によれば光の速度はどの慣性系に対しても一定である。これを「光速度不変の原理」と呼ぶ。光速度不変の原理から異なる慣性系の間の時空座標の変換式が求められ、それはローレンツ変換となる。このとき、ある慣性系から見て空間上の異なる地点で同時に起きた事象は、異なる慣性系から見ると同時に起きてはいない。これを「同時性の崩れ」という。結果として、観測者に対して相対運動する時計は進み方が遅れて見える。
一般相対性理論では、重力と加速度は等価とされ(等価原理)、これらは空間と共に時間をも歪める。「一般に重力ポテンシャルの低い位置での時間の進み方は、高い位置よりも遅れる」とされる[17]。例えば「惑星や恒星の表面では宇宙空間よりも時間の進み方が遅い」とされる。非常に重力の強いブラックホールや中性子星ではこの効果が顕著であるとされる[17]。
[編集] 時空
ニュートン力学でも相対性理論でも、1個の質点の運動は、3つの空間座標と1つの時間座標で表される4次元空間の中の1本の連続曲線(軌跡)として表現できる。また特定の時刻に特定の場所で何かが起きるといった事象(イベント)は、この4次元空間の中の1個の点として表現できる。しかしニュートン力学では、3つの空間座標が互いに入れ替えることができるのとは異なり、時間座標は空間座標とは全く独立であり両者は完全に別のパラメータとして扱われる。一方、相対性理論ではローレンツ変換により時間座標と空間座標とが混合するので、両者を完全に独立のパラメータとして扱うことはできない。すなわちヘルマン・ミンコフスキーにより示された通り、ローレンツ変換はこの4次元空間の座標軸の回転とみなせる。この事情か� ��、この4次元空間を時間と空間が強く一体化した「時空」だとする考えが生まれ、さらにこの考えが、重力は4次元時空の曲がりに相当するとする一般相対性理論の発想につながった[18]。この4次元空間は、ヘルマン・ミンコフスキーにより数学的に定式化されたので「ミンコフスキー空間」または「ミンコフスキー時空」とも呼ばれる。
「時空」も参照
[編集] 相対性理論後
よほど光速に近い速度で移動するもので無い限り、基本的にニュートン力学の枠組みで十分な精度で計算できるので、相対性理論が登場した後でも、大半の自然科学者は普段は基本的にニュートン力学の枠組みのままで時間概念を取り扱っている。(ただし、素粒子論などを扱っている科学者は別である)
現代の物理学の体系において、時間は物理量のひとつとして扱われている[19]。
MINYを綴るする方法特筆すべきことのひとつに、物理学分野での「プランク時間」の概念の登場がある。さる理論同士の矛盾があったが、もし光に最小単位があるという仮説を導入すれば解決することをマックス・プランクが見出し、それによって光量子の概念が認められ、それと連動してプランク単位系が生まれ、また「時間の最小単位」という概念も登場した。これがプランク時間である[20]。
[編集] ニュートン以降の哲学における時間
ニュートン力学の登場以降も、その理論の成功や、それが人々の時間概念に与えた影響を意識しつつ、哲学的な考察は続けられていた。
- 人間が実際に体験し、感じている時間はどのようなものか?(人が実際に体験している時間は、空間化(視覚化)された時間や、ニュートン力学の変数のような時間ではない、という指摘)
- そもそも、過去や未来というのは実在するのか?
- 変化するものが何一つない場合でも、時間はあるのか?
[編集] カント
カント(1724年 - 1804年)は、ニュートンの後の時代の人で、ニュートンの体系も学び大学で講義した人物である。彼は時間、空間の直観形式でもって、人間は様々な現象を認識すると考えた。カントにおいて経験的な認識は、現象からの刺激をまず外官(外的なものからの刺激を受け取る感覚器官)によって空間的に、内官(内的なものの感じをうけとる感覚器官)によって時間的に受け取り、それに純粋悟性概念を適用することによって成立する。空間は外官によって直観され、時間は内官によって直観される。この場合、時間は空間のメタファーとして捉える見方もあるが、それは『純粋理性批判』解釈の大変難しい課題である。時間、空間の一体どちらが根源的な認識様式であるかという問いに関しては、どちらかといえば時間であるという見解も純 粋理性批判には見出される。西洋の伝統では、事象は空間的、視覚的に捉えられる事が多いのである。
[編集] ベルクソンの説明
ベルクソンは、(西欧の自然科学で行われがちな)時間の理解のしかたというのは《空間化された時間》にすぎない、と指摘して批判した。たとえば、時計は空間化された時間の一例である。時計は時間ではない。座標の横軸や線分も時間ではない。そして、人間が経験しているのは時間というのは《空間化された時間》ではない、と指摘した。ベルクソンは時間を「純粋持続」であるとした。(時間というのは、視覚的に見える数学的線分などとは全く別ものである。自然科学を学んで、つい時間と、線分つまり紙の上に視覚的に描かれたインクの染みでできた黒い線などを同一視する、習慣を身につけてしまい、疑問も抱かなくなるが、それは錯誤(一種のカテゴリー錯誤だ)と指摘しているのである)
[編集] バシュラールの説明
ガストン・バシュラールもやはり、ニュートン的な時間の理解には異議を申し立てた。 ただし、ベルクソンが時間を純粋持続として捉えたのに対し、バシュラールは《瞬間の連続》だとした。我々が感じる時間現象は常に《現在》、言い換えれば瞬間でしかないからである。記憶にある瞬間瞬間と現在瞬間が比較される時、時間概念が誕生するわけである。またそこから、「瞬間瞬間をより高く深く生きる事が、よりよく時間を過ごす事となる」とするバシュラールの思想が開花する事になる。
[編集] 大森荘蔵の説明
大森荘蔵は、人が過去を思い出すとき「過去の写し」を再現しているのだ」と考えがちなことに注目する。大森はそのような《写しとしての過去》という理解は錯覚であるという。
そのような過去のモデルでは、まず写される対象としての正しい過去が存在し、それを写した劣化コピーとしての過去が記憶の中に存在するということになる。しかし、過去は「想起という様式」で振り返られる中にのみ存在する、と大森は述べる。思い出されるのは写しとしての過去ではなく、過去そのものである。
過去の記憶が正しかったかどうか考えるとき、想起という様式から離れて記憶の正誤を判定する過去は存在しない。想起同士の比較ができるのみである。
世界五分前仮説などは過去が想起の外に存在するという前提のもとに生まれた、意味のない問題であるという。
[編集] 時間の向き
[編集] 時間は未来から過去へ流れている、とする時間観
「時間は過去から未来へ流れているのではなく、未来から過去へ流れている」という考え方は、東洋ではアビダルマと呼ばれる仏教哲学で古くから述べられている[21]。またこれは現代の分析哲学における結論でもある[22]、と指摘しつつ、苫米地英人はこの見方を支持している。
「時間というのは過去から未来に向かって流れている」とする考え方というのは、創造主が世界をつくった、とするユダヤ・キリスト教の伝統に沿った時間観に過ぎない、と苫米地は指摘している[21]。創造主のいる宗教では「絶対神がビッグバンを起こし宇宙を創造したことからすべてが始まりそれにより玉突き的に因果が起きて現在まで来た」と考えたがるが、そう考えないと創造主自体の存在を肯定できないので、「過去の出来事が現在の原因である」と解釈されることになる、と苫米地は指摘した[21]。こうした考え方で"過去の因果によって現在、そして未来がある"などと考える限り、自分自身で明るい未来を切り開くことなどできない、とも指摘されている[21]。自分自身を、まるでただのサーモスタットのように見なすことになってしまうからである[21]。
ユダヤ・キリスト教的な時間観の枠内だけで育った人には意外に思えるかも知れないが、その枠をとりはらって少し考えてみてみると分かるようになるという[21]。以下のように解説されている。
現在は一瞬で過去になります。今、現在だったことはちょっと前の未来です。今現在やっていることが、1時間後には過去になります。つまり現在が過去になるのです。当たり前のことですよね。現在の行為が過去になるのです。つまり現在の結果が過去です。あなたのいる位置が現在とすると、あなたに向かって未来がどんどんとやってきては、過去へ消えていっているわけです。
この感覚は一度理解できると意外なほどに腑に落ちるという[21]。自分に向かって未来がどんどんとやってきては過去へと消えてゆく感覚。(自分が過去から未来へと向かっているのではなく)未来のほうが自分に向かって流れてくる感覚である。そして現在起きたことがどんどん過去になり遠ざかってゆくという時間の流れの感覚である[21]。こう考えれば、現在は過去の産物などではなく、未来の産物であり、しかも未来というのは固定されたものではなく、無限の可能性であり、しかもその未来は(過去の因果ではなく)さらに未来の因果によって決まる、ということになる[21]。
これを川の流れに喩えるなら、クルーザーに乗って川上に進みつつ、自分は川の一点を見ている、ということである。川は上流(未来)から下流(過去)に向かって流れている。ある時自分が上流から赤いボールが流れてくるのを見る。その後青いボールが流れてくるのを見る。ユダヤ・キリスト教的時間観で見てしまうと「赤いボールが流れてきたから、青いボールが流れてきた」という解釈になる。だが実際はそうではない、と苫米地は指摘する[21]。赤いボールが流れてきた結果青いボールが流れてきたわけではない[21]。未来という上流から、未来における何かの因果によって、赤、青の順番で放たれてそれが現在にまで到達したから、赤、青という順番で流れてきた、と苫米地は指摘する[21]。
例えば上の事例で、赤いボールを拾うか拾うまいか迷った揚句拾わなかった。その後青いボールが流れてきたのを見た時に、どう考えるか、ということがある。ユダヤ・キリスト教的な時間観で解釈してしまうとつい「しまった、赤いボールを拾わなかったから、青いボールが流れてきてしまった」と考えることになってしまうが、この場合も、赤いボールを拾わなかった、ということと、その後に青いボールが流れてきた、ということは何の関係もない。つまり「あの時、赤いボールを拾ってさえいれば…」などとくよくよ悩むことは意味がないのである[21]。過去に縛られる理由などどこにもない[21]と苫米地は指摘する。
[編集] 過去から未来へと流れているとする時間観(一神教的な時間観)
西欧人はキリスト教的な世界観・時間観にどっぷりと漬かって生きていることもあり、時間の流れに関しては固定観念を抱いていることが多い。たとえば"誰もが時間は一方向にしか流れないことに気づいている"[23]などと、(学問的に見て明らかに不正確なことが)西欧では主張されることがある。
女子トップ10サイト[編集] 科学における時間の矢
- 例えば、コーヒーとミルクが混ざることはあっても、混ざったものが自然と分離することは無い。このようにある方向に変化することはあっても、逆方向に変化することが無いものを不可逆現象という。
- 不可逆現象の例には、生物の誕生や成長や死、固体である物体の破壊、摩擦による運動の停止、燃焼などがある。これらは不可逆変化または非可逆変化とも呼ばれる。自然科学、特に熱力学においては不可逆過程または非可逆過程という言葉がよく使われる。
- 不可逆現象の事例は、ビデオ映像や映画フィルムの逆回しで説明されることが多い。例えば、"桶の底に入れた一升の米と一升の小豆の混合" を写した映画フィルムの例[24]や、"瀬戸物店に闖入した雄牛" を写したフィルムの例[25]や、"アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程" のビデオ録画の例[26]、がある。
- イギリスの天体物理学者アーサー・エディントンはこれを時間的非対称性だと考え1927年に「時間の矢」と表現した[27][28][29]。
- この"時間の矢"を物理法則として表したものの一つとして熱力学第二法則が言及されることがある。これは、「孤立系内のエントロピーは時間と共に増大するか変化しない」また「ある系は自由エネルギーの低い方へ変化する」と言い表される。これは「ある物体より熱を取り、それをすべて仕事に変えて、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である」というトムソンの原理、「低温の物体から熱を取り、それをすべて高温の物体に写し、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である」というクラウジウスの原理と同等であり、熱現象の観察事実を法則化したものである[30]。熱力学第二法則は時間の矢の現れの一つというだけでなく、非常に多くの時間の矢を説明(ないしは置換)できる。例えば"アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程"は「水とアルコールが分離した状態よりも、混ざった状態の方がエントロピーが高い(自由エネルギーが低い)ため起こる」と説明できる。そのためしばしば両者は同列に扱われる。
- ただしこの「時間の矢」ないしは「熱力学第二法則」は物理学的には必ずしも自明のものではない。時間的に逆に進行するような変化も起こり得る可逆性が厳密に成り立つような具体的マクロ現象を挙げるのは難しいが、振り子の運動や惑星の公転をニュートン力学により質点の運動として表した力学系では可逆性が成り立つ。「これはニュートン力学の基本公式が時間の正負を逆転しても成立する時間反転対称性を持つからだ」と長倉三郎などは理由づける[31]。また相対性理論も同様に"時間反転対称性"を持つ。分子や原子の運動は量子力学と電磁気学で記述できるが、これらの基本公式も同様に時間反転対称であり、このように記述された分子や原子の運動は「可逆性を持つ」とされる。これは「微視的可逆性原理」と呼ばれている[31]。微視的可逆性原理からマクロ現象における不可逆性が説明できるか否かは、不可逆性問題または不可逆性逆理と呼ばれる自然科学上の、特に熱力学や統計力学上の問題である。
- 不可逆性問題は統計力学的にはH定理によって説明が試みられているものの、これは「分子的混沌」などの仮定を置いており、一般に証明されたものではない。また、H定理を認めるとしても、熱力学第2法則とは統計力学的には「もし変化が進むならば、確率の大きい方(粒子のとりうる組み合わせの大きい方)に進むだろう」というものでしかない。これは未来を予測する場合に限らず、過去を逆算する場合でも「過去もエントロピーが大きい状態(確率の大きい状態)であったはず」という計算になってしまう。[32](つまり計算上過去から現在での過程においてはエントロピーの減少がおこっていることになる。)そのため実はH定理を認めた場合でさえ、統計力学的にも時間反転対称は破れていないことになる(現在をエントロピーの「谷間」として、過去未来のどちらに行こうとエントロピーは現在よりも大きくなる)。つまるところ、不可逆性問題の答えは得られていないのが現状である。
- 熱力学第二法則に基づく時間の矢の説明の変わり種として「記憶を含めた生命活動はエントロピーが増大する方向にしか働かず、故にエントロピー増大則が一般には成り立っていないとしても、知的生命体の認識する世界においては常にエントロピーが増大している。時間の矢があるようにみえるのはそのためだ。」というものもある。実際コンピュータの記録(正確にいえば記録の消去)はエントロピーの上昇を伴うし、生命活動においてもエントロピーの増大を利用することで方向性を持たせている反応もある(モーター蛋白質など)。この説に従うなら、(われわれから見て)エントロピーが減少していく系も存在しうるが、その内で生じる生命は(われわれから見て)「逆回し」な生命活動を行うはずであり、当人たちに してみればやはりエントロピーは「増大」していくことになる[33][34]。
- 素粒子論においてはCPT変換による物理法則の不変性がひとつのテーマとなっている。これは荷電共役変換C,空間反転P,時間反転Tの積であり、時間反転対称性が関与している[31]。
- 量子力学の観測問題におけるコペンハーゲン解釈では観測の瞬間に波動関数の収縮が起きる(と解釈されている)が、波動関数が収縮することはあっても、「復元」することはない。すなわち収縮過程は不可逆なものであり、時間反転に対して非対称となる。[35]。
[編集] 時間の速さ
《人が感じる時間》の速さは、気分、年齢等により変化する、と言われている。例えば同じ曲を流しても、安静にしていたり寝ぼけている時は速く聴こえ、激しい運動・活動の後では遅く聴こえる事がある。こうした場合、感じている時間の速さに相対的な違いがあると言える。また、年齢を重ねれば重ねるほど、1日なり1年が過ぎるのが速くなってきている、という感覚はほとんどの人が感じることである。人は時間をそれまで生きてきた経験の量の比率のようなもので感じている、と言われることもある。これは、7歳の子供にとっての1年が人生の7分の1であるのに対して、70歳のお年寄りにとっての1年が人生の70分の1あることからも説明ができる。
また生物の個体の生理学的反応速度が異なれば、主観的な時間の速さは異なると考えられる。例えば生物種間の時間感覚・体感時間の相違については本川達雄の『ゾウの時間、ネズミの時間』に詳しい[36]。
現代の自然科学を習得しその枠内で思考している間は、人はつい「時間は常に一定の速さで過ぎるものでそれに合わせて様々な現象の進行速度や周期の長さが計れる」などと考えてしまう。だが、その時人は(観測的には)、ある周期現象(例えば天体の周期運動、振り子の揺れ、水晶子の振動、電磁波の振動など)の繰り返しの回数を他の現象と比較しているだけであり、何か絶対的な時間そのものの歩みを計っているかどうかは本当は定かではない。
このような "常に一定の速さで過ぎる時間"という概念は、ガリレオ・ガリレイによる「振り子の等時性の発見」とその後の「機械式時計」の発達以降の近代において優勢になってきたとも言われる。それ以前には、例えば不定時法などはよく使われていた。
詳細は「時刻」を参照
また、場所により時間の流れる速さは異なる、ということは古代から言われている。例えば仏教の世界観では「下天の1日は人間界の50年に当たる」と言われている。また、一般相対性理論の枠内でも、重力ポテンシャルが異なる場所では時間の流れる速さは異なるのではないか、と考えられている。
[編集] 時間の有限・無限
時間の長さ、ということは、世界観とも深くかかわっている。世界というのを、肉眼で感じないものも含めて意識するか、その世界と現世の関係をどうとらえるか、あるいは自分が肉眼で感じているものだけに世界を限定してしまうか、ということで時間という概念が根本的に変わってくるからである。
[編集] 時間の長さ
古代宗教の節、ユダヤ教の節、古ゲルマンの節で解説したように、時間は円環して無限に続いている考え方が古来ある。 一方で(#ユダヤ教・キリスト教で解説したように)キリスト教では直線的で有限だということになっている。
[編集] 始まり
始まりがあったか、なかったか、ということに関しては、おおむね始まりがあったと考えられている。[要出典]
世界各地の神話では、世界(宇宙)には始まりがあったとされている。中国の神話には「天地開闢」の話があり、日本神話にも(日本なりの)天地開闢の話がある。『旧約聖書』の「創世記」にも神が世界を創造したと記されている(天地創造)。
例外はせいぜいニュートン力学の信者である。ニュートン自身はクリスチャンであり、聖書を信じ、神学を研究していたので当然天地創造を信じていたわけであるが、ニュートンが作り出した数学的な原理の体系がそのまま自然そのものだと信じた信者たち(19世紀の科学者たち)は「宇宙は静的で時間は無限に続いている」「時間に始まりはなかった」などと思い込んでゆくことになった。そうして静的宇宙論、定常宇宙論を思い描いていた。その世界観は20世紀になると崩れ去ってゆくことになった。[要出典]
1927年にベルギーのジョルジュ・ルメートルが「宇宙はprimeval atom(原始的原子) の"爆発"から始まった」とする説(ビッグバン仮説)を発表した時、唯物論や無神論を信じていた科学者たちは、ルメートルの説を"宗教的な"説だと見なして感情的に拒んだという。だが結局、聖書の天地創造のくだりを彷彿とさせるこの理論を、科学者たちも認めることになった。[要出典]
もっともビッグバン仮説も、結局は科学者たちが信じたがっている神話にすぎない[37]などと言われることもある。ビッグバン仮説は「科学者たちが作り出した創世神話」とはしばしば言われる。20世紀の終盤以降は自然科学者の多くがビッグバン仮説を信じるようになって、今度は「時間に始まりがあった」と信じている。科学者の大多数は、わずか100年ほど前に彼らが主張していたこととは反対のことを主張しているわけである。[要出典]
なお科学の領域では、宇宙は膨張と収縮を繰り返しているとする説や、宇宙はひとつではなくて複数が並立的に存在しているとする説などが乱立しており、科学者たちの見解が一致しているわけではない。結局のところ科学者たちは混乱している。[要出典]
人間が理解していることなど世界や宇宙のほんの一部にすぎない、ということは言われており、本物の世界や宇宙というのは人類の科学の理解力をはるかに超えている、とも言われている。[要出典]
インドでは古代から人の魂は輪廻と転生を繰り返していると考えていた。現在でも、多くの人が、人は輪廻を繰り返していると思っている。近・現代のスピリチュアリストたちも、魂は転生を繰り返していると言い、魂は何度も「この世」という学校で苦労を重ねて学ぶことで魂が成長して十分に成長するとこの世で学ぶ必要がなくなり、いわば"学校を卒業"し霊界の高い階層へと昇ってゆくことになるという。霊界の時間はこちらの世界の時間とは異質だという。そもそもこの物質界だけを唯一の宇宙だと思うことが間違っている、といい、肉眼に映るこのひとつの世界の時間のことだけを考えているということは世界の一部を意識しているにすぎず視野� ��狭すぎる、と彼らは言うのである。[要出典]
「宇宙論」も参照
[編集] 時間の構造
[編集] 直線的な時間
ニュートン力学における時間は、無限の過去から無限の未来へ続く直線であり、これは数直線と同型である。また相対性理論においても一人の観測者が感じる時間、すなわちひとつの質点に固定された時計が計る時間(固有時)は、同様に数直線と同型である。
[編集] 線分的な時間
時間が無限の過去から無限の未来へ続くのではなく、始まりと終わりのある有限なものという考えもある。 たとえば、前述のアウグスティウス的な時間観においては、時間は神によって創造されたものであり、始まりを持つものである。 これは世界や宇宙の始まりと終わりを考えることと同じことになる。世界各地の神話における世界の始まりについては「天地創造」や「天地開闢 (日本神話)」「天地開闢 (中国神話)」に詳しい。また世界の終わりについては「終末論」に詳しい。「宇宙論」も参照のこと。
[編集] 円環的時間観
時間は円環状であり、同じ歴史が繰り返されるという考え。 ユダヤ教、古ゲルマンの宗教なども含めて、現在の宗教にまで広く見られる。
この円環的な時間はニーチェの永劫回帰思想にも見られる。「回帰の環(Ring)」と表現されている。
アンリ・ポワンカレにより証明されたポアンカレの回帰定理が、上記のニーチェの主張におけるような厳密な時間の繰り返しを示したと解釈する人もいる[38]。
またSFにおいて、タイムスリップによって同じ時間を繰り返す、という設定(いわゆる「ループ」)が用いられることもある。
[編集] 虚数時間
スティーヴン・ホーキングとジェームズ・ハートルは1983年に発表した無境界仮説において、複素数にまで拡張した時間を計算に使用した。ここから、宇宙の始まりでビッグバン以前の時間が虚数であれば時間的特異点が解消されるとも主張した。なお、相対性理論では時間軸の単位として虚数表現ictを使うことがありこれを虚時間とも言うが、これは無境界仮説での虚数時間とは別のものである。
[編集] 時間の最小単位
古典物理学(量子論以前の物理学)における時間は連続体であり、実数で表せる。つまり時間はいくらでも細かく分割可能なものである。だが物質の最小単位として原子や素粒子があるように、時間にも最小単位があるのではないかとも考えられる。例えば映画フィルムのように一コマ以下の時間は存在しないという考えである。物理学(量子力学)ではこの最小時間間隔をプランク時間と呼ぶ。
[編集] 分岐時間
時間が木のように枝分かれするという時間観。 分岐後は複数の異なる歴史の世界が同時進行しているのだが、これらの同時進行する世界同士を互いに並行宇宙または並行世界(パラレルワールド)であると言う。
量子力学の観測問題の解決のためのひとつの仮説である多世界解釈も分岐時間の考えを使っている。[39]
[編集] 物語・SFなどでの時間
[編集] 時間進行の操作
時間の進行を速くする、遅くする、停止するというアイディアは昔から見られる。例えば浦島太郎、リップ・ヴァン・ウィンクルのように特定の場所や状況で時間の進行が異なるという昔話がある。現在の科学の用語と絡めて語られる設定としては、"相対性理論を応用して亜光速の宇宙船に乗る"、"ブラックホール等の重力ポテンシャルの異なる場所を通る"などといったものがある。時間停止については該当項目を参照のこと。
時間そのものの進行を変える、とするものではないが、関連するテーマとして、主観的な時間が止まったり生理的な反応を遅くするという発想もある。現実の医療現場における全身麻酔状態の患者や昔話の眠れる森の美女などをそれと見なすことも可能である。SFの分野などでは、「人工冬眠」「コールドスリープ」「冷凍保存」といった設定が見受けられる。
[編集] 時間進行の逆転
SFなどで、ある物体や場所など宇宙の一部分のみの時間を逆転することで、壊れた物を元に戻したり、死人をよみがえらせたり、無くしたものを取り戻したりできる、という設定が用いられることがある。[40]
[編集] タイムトラベル
時間の中を移動して、過去や未来へ行くというアイデア。 こういったストーリーの初期のものとしてはH・G・ウェルズの小説『タイムマシン』(1895年)が有名である。(タイムトラベルも参照可)
[編集] 未来の予知
SFには、超能力者が未来のことをESP(超感覚的知覚)を用いてあらかじめ知る、すなわち予知する、という物語が数多く存在する。 タイムトラベルとは異なり過去や未来に直接関与するのではないが、いわば情報のみをタイムトラベルさせるのだとも言える。情報のタイムトラベルにおいても、それを知った者の行動が変わることで未来を変える可能性があるため、タイムパラドックスを生むと考えられている[41]。
[編集] ループ
SF作品の中には、通常の時間の流れから切り離された部分的な円環時間の中に閉じこめられる、というアイディア(「ループもの」)が登場するものがある。
[編集] バラバラな時間
一部のSF等に登場する、時間に因果律や連続性は存在せずバラバラな「瞬間」が並んでいるだけ、という考え。[42]
因果律や連続性があるように感じるのは人間の錯覚ということになる。因果律が存在しない以上、たとえ「過去」を改変したとしても、以降の歴史には影響がない。従ってタイムパラドックスも生じない。
ドイツの業界紙『クレスレポート』が2002年に9人のエグゼクティブに「あなたにとって贅沢とは?」とのアンケートをとったところ、9人中7人までが、「時間があること」と答えた[11]。
[編集] 出典 脚注
- ^ a b 「日本国語大辞典-第六版」小学館 2001年6月
- ^ a b 「広辞苑-第五版」岩波書店 1998年11月
- ^ a b 「国語辞典-第六版」岩波書店 2000年11月
- ^ 「大辞林-第三版」三省堂 2006年10月
- ^ 「国語辞典-第六版」岩波書店 2000年11月
- ^ 「日本語大辞典」講談社 1989年11月
- ^ a b 『大辞泉』
- ^ 他にも、辞書類は似たりよったりの表現を挙げる。例えば「過去・現在・未来と連続して永久に流れてゆくもの」(「日本語大辞典」講談社 1989年11月)、「過去から未来へと限りなく流れすぎて」(「大辞林-第三版」三省堂 2006年10月)
- ^ 自然科学分野に限らず、先進国の子供や老人も含めて、という意味。
- ^ a b "曜日の話". 2011年4月12日閲覧。
- ^ a b c d e ローター・J・サイヴァート 「第1章~第2章」『「幸せ時間」ですべてうまくいく!』 飛鳥新社、2003年。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 阿部正雄 「時間」『宗教学辞典』 東京大学出版会、1973年。
- ^ ラテン語形:Caerus)
- ^ 出典. アウグスティヌス『告白』第11巻第14節
- ^ a b c d e f g h i j k l 安部謹也 『世界大百科事典』1988年。
- ^ ただし湯川秀樹は、ニュートンは自然の空間や時間が本当は均一ではない、と睨んでいたからこそ、あえて自らの体系の中で仮想されている空間や時間を「絶対空間」や「絶対時間」と呼んだのだ、といったことを指摘している(出典:『湯川秀樹著作集』岩波書店)
- ^ a b ロバート・L・フォワード 『SFはどこまで実現するか 重力波通信からブラック・ホール工学まで』 久志本克己訳 講談社〈ブルーバックス〉、1989年、247頁
- ^ 「アインシュタイン自伝ノ-ト」東京図書 1978年9月 ISBN 448901127X p77-80
- ^ 培風館『物理学辞典』
- ^ 時間に最小単位が無いとすると、さる理論のさる系のランダムさが無限に増大してしまうことになる、という理論上の難点を、プランク時間を導入すると解消できた、とも説明されている(出典:培風館『物理学辞典』)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 苫米地英人 「第一章」『夢をかなえる洗脳力』 アスコム、2007年。
- ^ (注)西洋哲学でも新しい分析哲学では1980年代に議論が行われた結果、同様の結論を出している、と苫米地は指摘する。
- ^ ピーター・コヴニー;ロジャー・ハイフィールド「時間の矢、生命の矢」草思社 1995年3月 p15
- ^ 寺田寅彦「映画の世界像」寺田寅彦全集第八巻岩波書店 1997年 所収 p150
- ^ ピーター・コヴニー;ロジャー・ハイフィールド「時間の矢、生命の矢」草思社 1995年3月 p28
- ^ 田崎秀一「カオスから見た時間の矢―時間を逆にたどる自然現象はなぜ見られないか」(ブルーバックス)講談社 2000年4月 p18
- ^ Arthur Stanley Eddington "The nature of the physical world (The Gifford lectures)" MacMillan(1943)アマゾンでの販売
- ^ ウィキペディア英語版"時間の矢"
- ^ 戸田盛和「物理読本(1) マクスウェルの魔―古典物理の世界-」岩波書店 1997年10月 p108
- ^ 藤原邦男;兵頭俊夫「熱学入門―マクロからミクロへ」東京大学出版会 1995年6月 3章
- ^ a b c 長倉三郎、他(編)「岩波理化学辞典-第5版」岩波書店 1998年2月 "可逆性"、"時間反転"
- ^ 吉永 良正 (編)「時間とは何か? (別冊日経サイエンス 180)」日経サイエンス 2011/08
- ^ 渡辺 慧 「時間の歴史―物理学を貫くもの」東京図書 1987年5月
- ^ 吉永 良正 (編)「時間とは何か? (別冊日経サイエンス 180)」日経サイエンス 2011/08
- ^ 吉永 良正 (編)「時間とは何か? (別冊日経サイエンス 180)」日経サイエンス 2011/08
- ^ 本川達雄『ゾウの時間、ネズミの時間』中央公論社、1992年、ISBN 4121010876
- ^ エリック・J. ラーナー『ビッグバンはなかった』河出書房新社、1993、ISBN 4309201954
- ^ ピーター・コヴニー;ロジャー・ハイフィールド「時間の矢、生命の矢」草思社 1995年3月 p19,70
- ^ タイムトラベルを扱うSFや疑似科学ではタイムパラドックスの解消のために分岐時間を使う、などという設定、発想が多く見られる。
- ^ 鋼屋ジン 古橋秀之 「斬魔大聖デモンベイン 軍神強襲」 角川スニーカー文庫 2006/8
- ^ ロバート・L・フォワード 『SFはどこまで実現するか 重力波通信からブラック・ホール工学まで』 久志本克己訳 講談社〈ブルーバックス〉、1989年、259頁
- ^ 山本弘「トンデモ本?違う、SFだ!」 洋泉社 2004年7月
[編集] 関連文献
- アンリ・ベルクソン『時間と自由』1889年。(『時間と自由意志』とも)(翻訳は岩波文庫 2001年 ISBN 4003364597など)
- マルティン・ハイデッガー『存在と時間』1927年。(哲学系)(筑摩書房1994年 ISBN 4480081372 ほか翻訳多数)
- 渡辺慧『時間の歴史』東京図書、1973年
- 渡辺慧『時』河出書房、1974年
- 『講座 仏教思想 第1巻(存在論・時間論)』理想社、1974年 ASIN B000J9B0J2
- ホイットロー『時間 その性質』文化放送開発センター、1976年
- 滝浦静雄『時間』岩波新書、1976年、ASIN: B000J9AYZI (哲学系)
- 中村秀吉『時間のパラドックス』中央公論新社、1980年
- 土屋賢二「時間概念の原型 -プラトンとアリストテレスの時間概念」(『新岩波講座・哲学』第7巻、岩波書店、1985年 に所収。1988年版ISBN 4000102273)
- 村上陽一郎『時間の科学』岩波書店、1986年、ISBN 4000076701
- エマニュエル・レヴィナス『時間と他者』法政大学出版局、1986年、ISBN 4588001787 (哲学系)
- 松田卓也・二間瀬敏史『時間の逆流する世界』丸善、1987年、ISBN 4621031619
- ゲーザ・サモン『時間と空間の誕生 蛙からアインシュタインへ 』青土社、1887年。新装版1997年 ISBN 4791755529
- ジェレミ・キャンベル『チャーチルの昼寝 人間の体内時計の探求』青土社、1988年 ISBN 4791751167
- 松田卓也・二間瀬 敏史『時間の本質をさぐる』講談社、1990年 ISBN 4061490052
- スティーブン・グールド『時間の矢・時間の環 』工作舎、1990年 (地質学的時間を扱っている)
- 本川達雄『ゾウの時間、ネズミの時間』中央公論社、1992年、ISBN 4121010876
- 大森荘蔵『時間と自我』青土社、1992年ISBN 479175171X、1993年 ISBN 479175171X
- 劉文栄『中国の時空論 - 甲骨文字から相対性理論まで 』東方書店、1992年、ISBN 4497923622
- スティーヴン・カーン『時間の文化史―時間と空間の文化 1880‐1918年(上巻)』法政大学出版局、1993年、ISBN 4588021389
- 「時間論の現在」(『現代思想』1993年3月号、青土社、所収)
- 大森荘蔵『時間と存在』青土社、1994年、ISBN 4791753054
- エマニュエル・レヴィナス『神・死・時間』法政大学出版局(叢書ウニベルシタス)1994年、ISBN 4588004492
- ピーター・コヴニー他『時間の矢、生命の矢』草思社、1995年、ISBN 4794205848 (ポピュラーサイエンス)
- 中島義道『時間を哲学する―過去はどこへ行ったのか』講談社現代新書、1996年、ISBN 4061492934
- (著者多数)『心理的時間―その広くて深いなぞ』北大路書房、1996年、ISBN 4762820598
- ポール・デイヴィス『時間について―アインシュタインが残した謎とパラドックス』早川書房、1997年、ISBN 4152080639 (物理系)
- 吉田健一『時間』講談社文芸文庫、1998年、ISBN 4061976346 (文学・哲学系)
- ジョン・グリビン『時の誕生、宇宙の誕生』翔泳社、2000年
- 田崎秀一『カオスから見た時間の矢』講談社、2000年 (物理系)
- 実松克義『マヤ文明 聖なる時間の書―現代マヤ・シャーマンとの対話』現代書林、2000年、ISBN 4774502049
- 中島義道『カントの時間論』岩波現代文庫、2001年、ISBN 4006000405 (哲学系)
- 入不二基義『時間は実在するか』講談社現代新書、2002年、ISBN 4061496387
- ウィリアム・グラハム フーバー『時間の矢 コンピュータシミュレーション、カオス―なぜ世界は時間可逆ではないのか?』森北出版、2002年、ISBN 4627153015
- 野矢茂樹『同一性・変化・時間』哲学書房、2002年、ISBN 488679081X
- 粂和彦『時間の分子生物学』講談社現代新書、2003年、ISBN 4061496891
- 真木悠介『時間の比較社会学』岩波現代文庫、 岩波書店、2003年、ISBN 4006001088
- 松田文子『時間を作る、時間を生きる―心理的時間入門』北大路書房、2004年、ISBN 4762823554
- 加藤周一『日本文化における時間と空間』岩波書店、2007年、ISBN 4000242482
- 入不二基義『時間と絶対と相対と ―運命論から何を読み取るべきか』勁草書房(双書エニグマ)、2007年、ISBN 4326199172
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
英語
日本語
0 コメント:
コメントを投稿